備忘録#20 僕と死について

メメント・モリ。グレイです。
今回はそのものズバリ直球なタイトルですが、最近死について考える機会が結構あるので、せっかくなので言語化してみようと思います。今回は真面目な話なので興味ない人はブラウザバックしてください。

 

肉体的な死と哲学的な死と精神の死について

突然ですが皆さんは死んだことはありますか?まああるわけないですよね。死ぬということは一般的な定義として肉体が生命活動を停止することです。基本的には死後は意識が消失し、何も残らないとされています。死んだことないのでわかりませんが。また、医療現場においては、肉体が生命活動を停止していなくても、脳死判定を以て死亡とし、医療行為をやめる場合があります。(専門的なことはわかりませんが)
それに対し、哲学的な死(とあくまで僕自身が定義するもの)は人々の意識から消失することです。つまり、歴史上の有名人物などは、哲学的な死を迎えずしぶとく生きているということになります。ちなみに、本当の哲学で扱っている死に関しては多くの哲学家が様々な考えを残していますが、それを書きだすとあまりにも広がってしまうので今回は割愛です。(これもまたそこまで専門にはやっていないのですが)また、余談ですが、我々と全く同じ振る舞いをしながらも主観的意識やクオリアといったものを持たないものは哲学的ゾンビと呼ばれています。他人が自分たちのように考えて行動しているかわからない、まあいわゆる唯物論や唯我論に近い主張ですかね(この認識でいいのかわからないけど)
精神の死は後述で定義しようと考えていますが、まあ意味合いはなんとなく伝わると思います。
前置きが長くなってしまいましたが、今回は多角的にアプローチしていこうかなと考えています。
 

生命活動の停止

人間は死んだら生き返ることができません。それは自明の理であり、否定しようのない事実です。だからこそ人の命はかけがえのないものとされているし、一生懸命生きたいと考える。人はその不可逆性ゆえに生きているとも言い換えることができるわけです。でも生命である限りは、いつかは死を迎えなくてはならない。始まるから終わる。これも当然のことです。ですが例外として自ら終わりを選択する人がいます。いわゆる自殺というやつです。ここでは自殺の是非を問うことはしませんが、僕自身の考えとしてはあまり気持ちの良いものではないということだけ述べておきます。で、その自殺を選ぶ精神状態こそが、精神の死ではないかと僕は考えます。なので、存外肉体的な死と近いところに位置しているわけですね。自殺もその形態によっていろいろ精神状態を知ることができるとされていますが、これもまた気持ちのいいものではないので割愛します。一方で、精神的な衰弱によって肉体も衰弱していくいわゆる衰弱死というものもありますが、結局は同じ精神の死だと思っています。死を意識的に選ぶか無意識的に選ぶか、(あるいは能動的か受動的かという言い方もできるかもしれません)
程度の違いでしょう。
また、避けられない突然の死、いわゆる不幸な死というやつもありますから、やはり人間は懸命に生きているし、そうであるべきだとは考えています。
 

哲学的な死と生きる意味

生きる意味って誰しも一度は考えることなんじゃないかと思います。僕自身も何度も考えたことであり、考えたことがない人はいないのではないでしょうか。ちなみに、僕自身の答えとしては、人生に生きる意味などないのではないかと思っています。簡単に言えば、人類が誕生したのは全く自然の摂理による偶然の産物であり、そこに意味は介在しないのではないかということです。ただそれではあまりに殺生なので、人間が日々生きるのは、「ごはんがおいしい」「あれが欲しい」「あの子が好きだ」「死ぬのが怖い」とかその程度でよいのではないかと思います。ここで、哲学的な死ともつながるのですが、人間が死にたくないと思う根源的な恐怖は、苦痛ももちろんですが、忘れられることの辛さなのではないかと思います。だからこそ生きる意味とかいうものよりも、生きていくうえで何を為すか、何を残せるかなのだと思います。我々が芸能人などにあこがれるのも実はそうした感情が根底にあるのかもしれません。
 

死とは

結局死については僕自身もよくわからないというのが正直なところです。でも人間って不思議なもので、夜一人になって死にたいと思うこともあれば死ぬのが怖いと思うこともある。でも、今こんな時代状況で人とのつながりが薄れていること、それは精神の死に直結すると思います。この社会状況の中、世界が死に向かっている状態だと考えています。だからこそ、会いたい人にはすぐ会いましょう。食べたいものはすぐ食べましょう。ほしいものはすぐ買いましょう。もしあなたが死にたいと考えているなら、それを止める権利は僕にはないですし、自殺が悪だと糾弾するつもりもありません。ただ、僕のこの文章を最後まで読んでくれた名前も知らないあなたがいなくなってしまったら少しだけ寂しいと思います。あと、「死にたくないから生きている」という状態の人がいますが、それでも僕はいいと思います。漠然と生きる。結構です。何かしなければという焦りがあるからこそその考えにたどり着くわけで、まだ精神的な死にいたってはいないので、それだけでも十分生きている理由になると思います。「生きろ」というのはある意味呪いなので、「生きていてくれたらうれしい」程度にとどめておきますが、まあ、肩の力抜いて適当に生きましょう。人間ってそんなもんです。
今回はこの辺で。
 
次回へつづく…